勝手にシネマ評/『山猫』('63)

ケメン映画天国!な~んて騒いでいたが、目下名古屋では映画史に残る本家本元の色男2人がスクリーンで拝めるのよ、知ってた?仕事休んで行ってよし!夕飯抜いても映画代工面しろ!ちまちまDVDなんかで見ようなんて思ってちゃ駄目だ!今すぐ劇場へ走れ!『ヴィスコンティと美しき男たち〜アラン・ドロンとヘルムート・バーガー〜』と題し、ルキノ・ヴィスコンティ監督作品『山猫』('63)『ルートヴィヒ』('72)が公開中。4K版の『山猫』は、イタリアを代表するブランド、グッチ(GUCCI)の支援により、マーティン・スコセッシ(さーすがマーティー、映画防衛隊長!)率いるザ・フィルム・ファンデーションが1万2千時間をかけて修復したもので、『ルートヴィヒ』もデジタル修復版は日本初公開だってさ。まっ、つまり劣化が激しいフィルムをキレイキレイに直し、色男たちの瞬の魅力を永久に祭ろうってわけよ。いや、色男だけを見に行く映画じゃないよー。特に『山猫』、今までに劇場で3度見ているが、老いさらばえる貴族の無常観が年を重ねるごとに胸に迫ってきて、辛抱たまらん!こんな映画、二度と作れないと断言できるわ。今回急遽12年前(2014.12)に見たときの映画評を引っ張り出してきたよ~(笑)。ぜひこの機会に足を運んでみて★


「ヴィスコンティと美しき男たち」予告編

 

い空に雲が流れ、ゆったり風が吹いている。生い茂る木々に沿って進むと鉄の門が現れる。その奥に構える古い屋敷―サリーナ公爵邸を目にしたとき、私は思わず武者震いがした…「あー、『山猫』が始まる!」―。

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『山猫』において、途方もなく広大な屋敷を正面で捉えるのが冒頭のこの僅かなショットだけだというのは意外なことかもしれない。但しこのショット、見逃すことはできない。なぜならここに薫るのは大邸宅の華々しいオーラではなく、威厳と一抹の侘しさだからだ。すでに『山猫』の基調音はここから認められている。やがて我々は庭を抜け、ゆっくり屋敷に近づき、「サンタマリア…」と祈りを唱える声のする一角に辿り着く。するとまたここでも風が吹く…。開け放たれた扉を前にしてレースのカーテンが揺らめき、しばしテラスから中の気配を伺う間合いのエロティックなこと!10年振り3度目の対面となった今回もどうしようもなく胸は高鳴った。『山猫』において、頻繁に顔を出すこの“風”というモチーフは、実に誘惑的な伴奏曲になっているのだ。

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んな滞空時間の長い前フリを経て、公爵とその家族がお出ましになる。お抱え神父に従って祈祷する様子は、さながら西洋古典絵画のごとき趣。室内の佇まいと、人々の配置、それぞれの振舞いが完璧な構図を作り上げ、扉が開け放たれていなかったら窒息してしまうほど重厚な光景が広がる。そう、サリーナ公爵家及びその屋敷は、一つの“国家”として我々の前に立ち現れるのだ。そして今この“国家”は、土足で踏み込んできた新しい勢力に翻弄され、傷つき、決断を迫られている。その渦中に立ち、貴族社会に終止符を打とうとするのが、主人公ドン・ファブリツィオ公爵である。豊かな髭を蓄えたこの男は、一家の食事の時間まで取り仕切る生まれながらの権力者だ。しかし一方で、時代の変化に無闇に抗することはなく、歴史的変革期にでさえ世の中を諦観する構えで居合わせている。特に、彼がすばしっこい目をした新時代を予感させる甥のタンクレディに目を掛けるとき、リーダーとしての計算は瞳から消え、ただただ眩しくて愛しい生き物と接するようで極めて印象深い。確かにタンクレディに扮する若かりし頃のA・ドロンの肉体は、軽さがある種の武器になっており(馬車に飛び乗る場面の華麗なステップを見よ!)、肉厚な公爵との対比は映画の中で重要な位置を占めているのだ。

f:id:chinpira415:20160609190815j:plain してもう一つ、「山猫」の重要な鍵となるのが“対話”のシーンだ。映画の中で公爵は幾つもの対話の時間を持つ。お抱え神父との日常会話から始まって、狩猟先で気心の知れた相手から新政権に関する感想を聞く時間。タンクレディの縁組のために新興ブルジョアの村長と打ち合わせをする時間。新政府の上院議員になるよう説得に訪れた使者との会話…というように。3時間6分の大作とはいえ、これだけ対話に時間が割かれていてどうして退屈しないのか、私にはそのことがまず不思議だった。それも、対話をリアクションで繋ぐという映像が意識された方法ではなく、語りそのものがメイン・ディッシュなのにだ。小説との違い、演劇との違い…何かしら映画ならではの作為がないと地味過ぎて間が持たないはずなのに、もっともっと彼の話に耳を傾けたくなってしまう。公爵の語りが、常に話しながら思索し、思索しながら決断してゆくもので、そうした重層的なプロセスに映画を感じるからなのか。

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や、むしろもっと単純なこと。公爵の抱える人としての厚み ―肉体的にも精神的にも― が、それだけですでにドラマチックだからだ。しかも一国家のごとき名門貴族を代表するこの男でさえ、孤独と共に在り、死から逃れられないという点において我々と何ら変わりないことが対話の中で痛切に迫ってくるときのリアリティたるや…。こうした通俗的な力を侮ることなく、逆に戦力として取り込んでしまえるところにヴィスコンティ監督の凄味がある。公爵と我々を始終強く結びつけつつ、でも映画そのものは誰の心ともけして寄り添わない。この恐るべき冷酷さ!そしてそれを最も窺い知れるのが、あの伝説の大舞踏会の場面であろう。

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f:id:chinpira415:20160609191141j:plain  こではあらゆる“過剰”が提示される。紳士淑女の数はもちろん、夥しい数の宝石に扇におしゃべりが渦巻き、豪華さも醜悪さも老いも若さもどっと溢れて、その息苦しさに眩暈がする。しかしこの壮大な宴こそは、公爵の孤高を際立たせるために用意されたこれ以上考えられないほど残酷な仕掛けなのだ。


々は、一人歩いて岐路に就く公爵の後姿を、もはや他人とは思えない。あのシチリアの乾いた大地に吹き抜けていた風さえ恋しく思うほど、公爵と同じ血潮を分かち合う身になっている。最大限の敬意と親密感を寄せる中での幕切れが、いかにも傑作の名に相応しい。

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山猫
1963年/イタリア・フランス/カラー/187分

監督   ルキノ・ヴィスコンティ
撮影   ジュゼッペ・ロトゥンノ
脚本   ルキノ・ビスコンティ
     スーゾ・チェッキ・ダミーコ
キャスト バート・ランカスター
     アラン・ドロン
     クラウディア・カルディナーレ