なぜか魅かれるもの―⑥

なぜか魅かれるもの―6回目は趣向を変えて、形のないものを取り上げてみたい。…それはファミリーヒストリー! 同名タイトルのNHKの番組、私けっこう好きなんだよなあ。他にも、作家自身の家族をモデルにした小説や、何代も続く家業の話、血筋が立ち上るエピソード等に、すごくそそられる。それも、有名かどうかに関係なく、ごく普通の人々のファミリーヒストリーにもなぜだか血が騒ぐわけ。例えば友人の冠婚葬祭シーンに列席し、その親族の姿を目にすると、当人から日頃聞いていた生い立ち話が実録ものに具体化され、まるでナマの家系図を見るようですごーくテンションが上がる。友人の背景にグッと厚みが増し、その人の生の濃度がいつもより濃く感じられ、水彩だった絵が突如油絵に変わって見えちゃうかんじ(笑)。さすがにヒストリーにまではたどり着けないが、ここでは最近感銘を受けた2つのファミリーエピソードを書いておきたい。個別な話なのに、身に覚えのある話に思えてくるのが実に不思議だったのよ!少々長いが、ぜひお付き合いを―(ぺこり)。

 

海外赴任中のKくんの写真にまつわるファミリーエピソード

▶私には「今度生まれ変わったら、コイツのねえちゃんになりたい!」と思う8歳年下の“妄想”の弟がいる(笑)。Kくんとのつきあいはもう20年になるが、去年から単身でロンドン赴任となり、時折り近況をメールで共有しあっている仲だ。

▶そんなKくんがこの春、80歳になり腎臓が悪くなってきた母上と、2人の姉上(こちらは本当のねえちゃんです!)の3人を赴任先のロンドンに招待したらしい。母上にとっては海外旅行の最後のチャンスになるかも…と思っていたら、シンパイするよりぜんぜん健康で、あちこち丸一日連れ回しても平気なくらいだったとか★

▶そして夜は上のお姉さんよるアルバム写真大会お姉さんに頼んで、むか〜しの家族アルバムから写真をiphoneに撮って来てもらい、それを大型テレビでみんなで見て懐かしむという遊びをしたんだって。何百枚もあるのに、1枚ごとにあ〜だこうだと何分も話し込むから、盛り上がりすぎてちっとも終わらなかったそうな…(笑)。

  • シゴト場でくわえタバコでシゴトをしている父の職人写真
  • 父兄参観でキレイだと言われていた若かりし頃の母と友達の母さんたちの写真
  • いつも母が作った服を来ている僕たちの子供時代の写真
  • 家族でカローラにのって行った長島温泉
  • 中学生で丸坊主のボクの写真
  • 青年団の盆踊りで踊っている姉と近所の親戚の人たちの写真etc…

どこを切りとってもそれは昭和の象徴のような…三丁目の夕日そのものだったという。厳密にいうと『三丁目の夕日』は1964年が舞台。Kくんの写真群はそこから10年くらい経たものだとは思うが、彼の実家は四日市からさらに奥だから、時代の顔つきは『三丁目』と近しかっただろうな。さらに言えば、当時はどの家族にも似たような家族の情景があった。そう、日本人全員が同じ空のもとで、同じ方向を向いて生きていたのだ。

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▶一方で、Kくん自身が家長となって拵えた一家(夫婦と子供2人)の写真を見返したら、それは家族としての求心力よりもむしろ遠心力、それぞれが個々にがんばってる感のある写真が多いことに気づいたらしい。親戚との写真などほとんどないんだって。つまり家族や親戚や近隣というものとの関係性が大きく変わり、絶対の信頼の対象にならなくなった事実が写真に現れていると、書かれていた。

そうよ、そう!自分のアルバムを振り返ってもまったく同じ!子供の頃の写真には、親類を始め、ご近所、住み込みで働きに来ていた出稼ぎの職人さん、町内会の人たち、父の仕事関係者など、様々な人が写っていて、関係軸が多いのだ。ただあの時も「絶対の信頼」とまでは考えていなくて、自分たちの暮らしを「まあこんなもの」と認識し合う関係ではあった。「まあこんなもの」と言語化しなくても肌合いで了解し合えることが、かつての日本人の「信頼」だったのかもしれない。なのに、その当たり前に稼働していた共同体のわずらわしさにだけ目を向け、しがらみからの脱出=自由と定義したのは、他ならぬ私たち世代なんだよなあ…。

でも、失くしたものを数えたところでしょうがない。あの頃の共同体には、イチイチ行く手を阻む抑圧があったのも事実だもん。いい機能を思い出せる人間が、未来に形を変えてつなげばいいと思ってるけどね。

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さて懐かし続きに、50云年も前の我が家族の写真を引っ張り出してみた。父がカメラ担当だったからか、家族4人揃っての写真がほとんどない(汗)。機械もの=男の作業だったのね。そして我々の目線はいつもまっすぐ…気合入ってます(爆)。

 

Sさんの文系惜別のファミリーエピソード

▶私より1歳年下のSさん一家4人は、現在全員住処を別にしている。ご主人は単身赴任中で東京に住み、2人の娘は京都で大学生活を送り、Sさん当人はハードに仕事をしながら名古屋の自宅で犬といっしょに暮らす日々。一家は東・名・阪と3拠点に分かれてそれぞれの活動を遂行しているのだ。(どうでもいいことだが、Sさんちは冷蔵庫を4台持ってるってことか!)

▶そんなSさんの実家は四国(ちなみにご主人の実家は九州!)だ。この1年あまり、実家の母上の体調が思わしくないようで、まとまったお休みのたびに足繁く帰省している話は、しばしば耳にしていた。何せ親類は全員名古屋で、実家は地下鉄で20分の距離の私と比べれば、目配せのパワーだけでも桁違いだから、常々感心していたのだ。

だがどんな関係もいつかは終わるSさんはこの4月、母上の最期を見送ったという。同世代ということもあり、日頃から高齢の親やじぶんたちの行く末に関して、様々な角度から客観的に意見を交わしあってきた仲だが、彼女の口から聞いた母上との最期の日々に心が揺さぶられた。特にこのエピソード…

  • 若かりし頃、婦人公論に投稿した俳句が紙面に掲載され、それをきっかけに俳句が生涯の趣味となったSさんのお母さん
  • お母さんがあのハレの体験を思い出したら再び元気になるかも…と、ネットで「婦人公論」のバックナンバー入手方法を検索してみる(このとき同じような行動をしている人たちがたくさんいるのに驚く)
  • 問題は号数が特定できないこと。そこでお母さんのあいまいな記憶を頼りに年代を推察し、国会図書館へ出向いてマイクロフィルム検索を試みるが…探しきれない(汗)。
  • ところが一発逆転!ご主人の住む北関東にも雑誌のバックナンバーを扱っている施設があることが判明。早速ご主人が出向いて物色したところ…何と「婦人公論」1958年4月号にお母さんの句が発見できたのだあ~!
  • その頃、お母さんの容態は急速に悪化し始めたが、何とかSさんに届いた携帯の画像でいっしょに本を眺め、その後実物のコピーもお母さんは見届けることができたんだとか―(涙)。

▶Sさんご夫婦は今回の件で改めて文学の力を痛感したという。わかるなあ~。世の中に承認されていたものだから流通し、それゆえちゃんと物として残っていることの証だものね。当時、月に一度知的好奇心を満たしてくれる女性向け雑誌の影響力は、地方に暮らす人ならより大きかったことだろう。独身だった母上、そこに自分の名前が載ったときの高揚感は、その後の人生を希望多きものと捉えられるきっかけになったのではないだろうか。そうして母上の紡いできた文学の時間が、娘の力を借りて最期のタペストリーに織り上げられ、美しき大団円になったような気がする。

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当時の婦人雑誌は名高い画家たちが表紙絵を手掛けている。左から東郷青児藤田嗣治ライバルの「婦人画報」は猪熊弦一郎。それだけ売れていたんだろうなあ…。

ファミリーエピソードを紹介しながら、少し前の日本が見えた。そして2編とも、離れて暮らしていてもいざとなったら家族の求心力が発揮された話でもある。この先家族の話はどんな展開になるのだろう。意外に変わらないもののような気もするんだけどなあ…。