勝手にシネマ評/『VORTEX(ヴォルテックス)』('21)

ギャスパー・ノエ監督作品、タイトルの『VORTEX(ヴォルテックス)』は、フランス語で「渦(うず)」の意味らしい。渦と言えば鳴門の渦潮か、モーリス・ビンダーによる銃口をモチーフにした『007』のオープニングデザインくらいしか思い浮かばないが、本作はクライマックスでタイトルを表す映像がズバッと流れる。誰も予測できないとんでもない渦がスクリーンにデカデカと!

さて映画は「渦」にたどり着く前に、懐メロをBGMにして、これぞ“巴里の空の下”と言わんばかりのシーンで幕開けルネ・クレールジャック・タチの映画に出てきそうな古いアパートのペントハウスに、身だしなみを整えた老夫婦がお出ましになるのだ。

ご機嫌な二人は、ベランダで花に包まれながらワインで乾杯。親しい人との語らいで過ごす豊かな時間が立ち上り、まるで後期高齢者向けの広告記事に出てきそうなツーショットである。妻が「人生は夢ね」とつぶやけば、夫は「夢の中の夢だ…」などと、哲学的に応答。さすがはアムールのお国、いくつになろうと現役宣言か。でもヘンだな…老夫婦が主役とは知っていたが、認知症の話じゃなかったけ?

いや、ちゃんと予備知識通り、開始後瞬く間に認知症の話になったので安心した。重いテーマに安心したというのもヘンな話だが(笑)、何かしら壊れて行くのは自然の摂理。老いた身にピッカピカな人生がエンエンと続く方がむしろしんどくないか?そこで本作は、「夢の中の夢」=人生から、今まさに退場しようとしている老夫婦の日々の営みの一部始終を定点観測して綴る

     

心臓に持病を抱える夫のルイは、映画を専門とする現役の作家。妻のエリーは元精神科医という偏差値の高いカップル。ところが、ベランダでの語らいからどれほどの時間が経過したのかは定かではないが、バラ色の時間が一転、どうも近頃妻の様子がおかしいらしい。映画は、この微妙な変調を匂わすのに、同じベットに横たわる早朝のふたりの様子からスケッチを始め、素晴らしい。

どこからかラジオが流れる室内。先に起き出した妻がトイレに行き、コーヒーを用意し、服を着替えて机に向かい、何やら一生懸命メモを取る。一見寝起きの自然な振る舞いのようだが、どのアクションもやり切らずに次に移り、ソワソワと落ち着きがない。我々は冒頭のハレの横顔や、書物に囲まれたふたりの棲家に漂う充実した暮らしぶりをチラ見しており、この時点で認知症とは認めにくいが…それでもやっぱヤバない?

というのも、寝起きシーンから映画の画面が縦に二つに分かれ、妻と夫を左右別々の画面で捉えて進み、孤立感がより際立つからだ。ほーっ、同居している夫婦を、独居老人×2事例として個々に観察させる狙いなのか…なかなかユニークじゃないか。するとここには、いたわりあって老いを共に歩んでいる形跡はまるでなく、妻の異変が夫に届いていない。妻が近所を徘徊して手を焼いても、じぶんの仕事の遅ればかりが気になり、彼女をまともに見ようともしないし…あらあら、もしかして夫もヤバない?

不思議なもので、一旦ふたりの暮らしに綻びを嗅ぎ取ると、好きなものに囲まれた複雑な間取りの個性的な住居が、もはや誰も手が付けられないゴミ屋敷に見えてくる。そう、安心であるはずの住み慣れた終の棲家が、抜け出せない迷路に早変わりしてしまうのだ💦家の中で老夫婦を迷子にさせるなんて何て大胆かつリアルなの、面白すぎる! 

そこへようよう家族が登場。離れて暮らす息子が様子を見にやって来た。夫よりは傾聴スキルがありそうな息子の態度に少しホッとするものの、連れて来た孫は年寄りには騒音でしかなく、ヨメは入院中だわ、そもそも肝心の息子が薬物依存者で、対策を取るどころか逆に金をせびって帰宅するではないか!

へっ?もしかして聴き役に来ただけ?役所に相談に行かなくて大丈夫?食事のシンパイは?…等、我々の懸念事項はことごとく据え置かれる始末。そっか、ホラー映画の鉄則に倣い、息子はさらなる恐怖を呼び込むための呼び水だったのだ

そうとわかれば、ケアマネ心境で見守るのは野暮というもの。夢の中の夢の顛末をLIVEで拝見させていただくことにしようではないか―。

何といっても人間の習慣ってヤツがコワい。医者だった妻は薬で遊ぶ(!)。淹れるつもりの珈琲はガス栓を開けるだけになり(!)、夫の原稿を破り捨てて掃除のつもりだ💦夫だって似たようなもの。現役作家と思い込んでいるのはじぶんだけで、執筆は遅々として進まず、20年来の愛人から別れを切り出されてうろたえている有様。呼吸疾患のひゅーひゅー音まで、恐怖効果は抜群だ。

かつて無意識で繰り返していた行動が、ズレて軌道修正できなくなったふたり。とっくにプロのケアを必要としていいタイミングだが、人生という夢から覚めたくないのか、妻は脈絡なく謝り、夫は焦燥感を逆ギレで訴える。

それでも映画は別々の画面のまま、予想を遥かに超えた具体的な崩壊劇を同時進行させ続けるため、コワすぎて爆笑せざるを得ない。極め付きはタイトルの渦だ。一家の灰汁を飲み込みながら便器の中にボンヤリ登場したときは、底なし沼のようで、さすがに慄然とした。

やがて、のたうち回りながら夫が先に逝き、受け入れ施設が決まった矢先に妻も永遠の眠りにつく―。どうあがいたところで一度生まれ落ちた個々の生は、個々の死で幕を閉じる以外ない。心穏やかな最期とは対極の壮絶なラストスパートだったが、二人とも自分本位で天寿を全うしたという意味においては本望だったように映る。息子を含めたこの一家を、終始批評しない監督の姿勢に好感を抱いた

そして濃厚な夫婦の痕跡をかき消すかのように、事務処理、葬儀、納骨と、駆け足で型通りに執り行われての幕切れであるブレッソン映画並みの有無を言わせぬ寒々しいシークエンスに、我々は夢から覚めた事実を知る。

ふたりのベッドが、遺品整理屋に運ばれて行くのを横目で見ながら、あの悪夢がすでに懐かしいものとして思い起こされるという不思議さ…。老夫婦を演じたダリオ・アルジェントフランソワーズ・ルブランに拍手喝采、傑作です。


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『VORTEX(ヴォルテックス)』

2021年/148分/フランス

監督/脚本   ギャスパー・ノエ
美術    ジャン・ラバッセ
撮影    ブノワ・デビエ                                              
出演    ダリオ・アルジェント フランソワーズ・ルブラン           

PS 次回は1/29に更新します